過去の巨大地震一覧

更新日:2019年1月16日

こちらのページでは、過去に巨大地震と呼ばれるほどの被害を発生させた大きな地震を地方別にご紹介しています。

20世紀以降だけでも日本各地で巨大地震が発生しておりますので、火災保険の契約の際には地震保険も前向きに検討してみてください。

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目次

  1. 北海道
    • 択捉島沖地震(1918年・1958年・1963年)
    • 十勝沖地震(1952年・1968年・2003年・2008年)
    • 色丹島沖地震(1969年)
    • 根室半島沖地震(1973年)
    • 浦河沖地震(1982年)
    • 釧路沖地震(1993年)
    • 北海道南西沖地震(1993年)
    • 北海道東方沖地震(1994年)
  2. 東北地方
    • 昭和三陸地震(1933年)
    • 宮城県沖地震(1978年・2005年)
    • 日本海中部地震(1983年)
    • 三陸はるか沖地震(1994年)
    • 宮城県北部地震(2003年)
    • 岩手・宮城内陸地震(2008年)
    • 東日本大震災(2011年)
  3. 関東地方
    • 関東大震災(1923年)
    • 八丈島東方沖地震(1972年)
    • 伊豆大島近海の地震(1978年)
  4. 中部北陸地方
    • 東南海地震(1944年)
    • 三河地震(1945年)
    • 福井地震(1948年)
    • 北美濃地震(1961年)
    • 新潟地震(1964年)
    • 松代群発地震(1965年~1970年)
    • 伊豆半島沖地震(1974年)
    • 長野県西部地震(1984年)
    • 新潟県中越地震(2004年)
    • 能登半島地震(2007年)
    • 新潟県中越沖地震(2007年)
  5. 関西近畿地方
    • 北丹後地震(1927年)
    • 昭和南海地震(1946年)
    • 阪神淡路大震災(1995年)
  6. 中国四国地方
    • 芸予地震(1905年・2001年)
    • 鳥取地震(1943年)
    • 鳥取県西部地震(2000年)
  7. 九州地方
    • 日向灘地震(1909年~1996年)
    • 喜界島地震(1911年)
    • えびの地震(1968年)
    • 福岡県西方沖地震(2005年)
    • 熊本地震 (2016年)
  8. まずは一括見積もりで保険料を比べてみましょう!

北海道

北海道で20世紀以降に発生した大地震の一覧です。

北海道では道東を中心に過去多数の地震が発生しているほか、海岸線が長いため津波も起きています。また、冬は積雪が非常に多く、雪による被害も発生しています。

なお、道東だけではなく、今後は道内の他のエリアでも地震が起きる可能性がありますので、注意が必要です。

択捉島沖地震(1918年・1958年・1963年)

択捉島沖地震は、1918年9月8日と1958年11月7日と1963年10月13日の3回にわたって発生している大地震です。マグニチュードは順に8.0・8.2・8.1でした。

いずれの地震でも津波が発生し、1918年には津波による死者も出てしまいました。また、今後数十年内にこの近辺で大地震が起きる確率が高いとされています。

十勝沖地震(1952年・1968年・2003年・2008年)

十勝沖地震は、1952年3月4日や2003年9月26日や2008年9月11日などに発生した複数の大地震の総称です。1952年に震度6、2003年に震度6弱、2008年に震度5弱を記録しています。

特に被害が大きかったのは1952年で、揺れに加えて津波のも発生し、300人以上の死傷者と多数の建物損壊が出てしまいました。

体験談

●●1968年に北海道道南から青森県を襲った十勝沖地震を体験しました。当時、私は6歳で小学1年でした。朝、授業が始まったばかりの時間でした。

教室の壁のモルタルが剥げ落ちて、強い地震になりました。先生は薪ストーブを必死に抑えていました。グランドに集まった時、不安で泣き出す生徒もいました。

家に帰る途中、街で何軒か家が崩れていました。自宅も水槽が壊れ、ガラスが割れていました。夜は停電しそれが二日間続きました。ろうそくの明かりを家族で囲みながら過ごしたことをよく覚えています。道路も何ヶ所か亀裂が走っていました。

私が生まれて初めて体験した大きな被害の出た地震です。私の家は新築したばかりだったので、それほど被害はありませんでした。

●●十勝地方はもともと地震が多く、震度3弱くらいの地震なら日常茶飯事で話題にもならないくらい住人は地震慣れしていますが、2003年の十勝沖地震の際はさすがに大騒ぎになりました。

幸い、我が家は地盤が強い地区にあり、棚の上に飾っていたものが落ちた程度の被害で済みましたが、揺れが強かった地域に住む親戚の家では「テレビが落下する、本棚がずれて本が落ちる」など、一歩間違えたら大怪我に結びつきかねない被害がありました。

我が家でも親戚の家でも、家具を固定する措置を全くしていなかったために起きた被害でした。地震が多い地域に長く住んでいても、地震に対する備えや心構えが予想以上にできていないことを痛感しました。

あれ以来、親戚一同で耐震対策に気を使うようになり、おかげで2008年に再び大きな地震があった際には以前より少ない被害で済みました。

色丹島沖地震(1969年)

色丹島沖地震は、1969年8月12日の6時27分に発生したマグニチュード7.8の大地震です。震源地は色丹島南東沖で、北海道釧路市や根室市などで最大震度4を記録しました。

震源地が陸から離れていたことや、深さもある程度あったことから、マグニチュードの割に大きな揺れは観測されず、被害も軽微なレベルで済みました。

根室半島沖地震(1973年)

根室半島沖地震は、1973年6月17日の12時55分に発生したマグニチュード7.4の大地震です。震源地は北海道根室半島南東沖で、釧路市や根室市などで最大震度5を記録しました。

また、一週間後の6月24日には余震が発生し、こちらも震度5を観測しています。津波は起きたものの、幸いなことに死者は0で済みました。

浦河沖地震(1982年)

浦河沖地震は、1982年3月21日の11時32分に発生したマグニチュード7.1の大地震です。

震源地は浦河郡浦河町南西沖で、浦河町で最大震度6を記録したほか、道内の各地や青森県の一部で震度4~5を観測しています。

数百軒の建物に損壊が発生したほか、負傷者も150人以上出てしまいましたが、死者は出ずに済みました。

釧路沖地震(1993年)

釧路沖地震は、1993年1月15日の20時06分に発生したマグニチュード7.5の大地震です。

震源地は釧路市南方沖で、釧路市で最大震度6を記録したほか、帯広市や青森県八戸市などで震度5を記録しています。

なお、この地震による地震保険の支払い額が非常に大きかった(戦後最大)ため、以降の地震保険の見直しが行われました。

体験談

●●私は地震当時、釧路市の隣の帯広市に住んでいました。帯広市は震度5を計測しましたが、これほど大きな地震を経験するのは初めてであったため、とてつもない恐怖でした。

小学5年生であった私は、恐ろしさのあまりずっと父親に抱きついていました。その最中にも食器棚からはコップや皿が落ちて割れる音がしていたり、窓が激しく揺さぶられて割れてしまうのでは思うほど激しい揺れが1分くらい続いたと思います。

地震直後は停電になってしまい、私の地域では30分くらい電気が全くつかない状態でした。季節は冬であったためとても寒かったですし、電気のない時間を経験するのも初めてであったので、何が何だかわからない状況でした。幸いにも私の家族に怪我はありませんでした。

北海道南西沖地震(1993年)

北海道南西沖地震は、1993年7月12日の22時17分に発生したマグニチュード7.8の大地震です。

震源地は奥尻郡奥尻町北方沖で、小樽市や寿都郡などで最大震度5を記録したほか、推定ではありますが、震源に近い奥尻町では震度6に相当するとされています。

大きな津波が発生し、津波だけでも200人近い死者を出してしまいました。

体験談

●●私がこれまで体験した地震の中で印象に残っているのは、東日本大震災も当然そうなのですが、それ以外となると、北海道南西沖地震を挙げます。当時私は17歳になった頃でした。親元を離れて学校の寮で暮らしていました。高校二年生です。

ある夜、強い揺れに襲われました。揺れは長く続きます。私は同部屋の友人と一緒に部屋を出て、外へ出ようとしました。すると他の部屋からもみんな出て来て、外へ出るために階段を下りていきます。上級生の人たちも上の階から下りてきました。

あとで思い返して面白かったことがあるのですが、それは、みんなだいぶ落ち着いていた、ということです。それで特に混乱もなく避難することができました。私の考えはこうです。というか、私はこうでした。

つまり、十代の少年たちが男子寮に住んでいるわけです。地震が起きたといって慌てふためいたら、男としてみっともないと思われるでしょう。だから、みんな平静を装ってゆっくり逃げた、というわけです。

でも、かえってそれが幸いしたということでしょう。みんなが我先にと逃げ出したら、けが人が出ていたでしょうから。避難の途中で、停電にも襲われて、建物の中が真っ暗になりました。

結局、外に出る前に揺れは収まったので、みんなそのまま自分の部屋へと戻って行きました。私の実家は震源地に近い海辺の集落なのですが、後で聞くと、やはり地震があった後、すぐに高台にある小学校へ避難したそうです。

その年の夏休み、地震にまつわる切ないでき事がありました。1993年7月に起こった北海道南西沖地震は、北海道南西部にある離島、奥尻島に大きな被害をもたらしました。津波もその一つです。その、津波によって流されたであろう住宅の残骸の一つが、私の地元の港に流れついたのです。

私は夏休み、たまたま地元の港に行ってそれを見てしまいました。三角の形をしていたので、おそらく屋根の下の部分が流れついたのだと思います。それを見た瞬間、私は初めてその地震の凄まじさを心底理解しました。

それを見るまで、私の中でその地震は、「揺れた、怖かった」それだけでした。テレビで被害の状況も見ましたが、ブラウン管を通すとなぜだか遠い世界のでき事に思えるのです。

しかし、その漂着物を見た瞬間、今回の地震によって失われた財産、失われた命が、確かにあったんだ、ということを腹の底から分かったのです。とてもショックでした。今でもあの瞬間のことは忘れられません。

●●1993年の北海道南西沖地震を経験しました。私が住んでいる地域では震度4でしたが、それまでに経験した地震の中では一番大きな地震であり、被害もまた大きなものでした。

それまではテレビやタンス等の大きな家具はそのまま置いていましたが、この地震を機に、家具が倒れないように必ず転倒防止金具で固定するようにしたのを覚えています。

翌朝テレビ画面に映っていたのは、津波にのみ込まれたうえに火災が発生し、どうすることもできない状況に陥っていた奥尻島の姿でした。この津波被害の後、やむなく奥尻島を離れなければならなくなった人たちを、私は数人知っています。

この時から「地震=津波」であり、大地震は一瞬にしてそれまでの人々の暮らしを一変してしまうものだという事を、強く意識するようになりました。地震大国で暮らしている以上、常に地震の存在を忘れず、民間レベルでもできる限りの危機管理を意識することが大切だと思います。

北海道東方沖地震(1994年)

北海道東方沖地震は、1994年10月4日の22時22分に発生したマグニチュード8.2の大地震です。

震源地は根室半島沖で、釧路市や厚岸郡で最大震度6を記録しました。その衝撃は道内だけに留まらず、東北地方や関東地方の広域でも震度3~4を観測しています。中部地方である静岡県熱海市でも震度3の揺れが確認されました。

体験談

●●私は中学生の頃に北海道東方沖地震を体験しました。この地震は夜の10時半くらいに発生したため、私は布団の中にいました。地震が起きた時には夢を見てるのか現実なのか、正直何が起きているのかわからない状態でした。ただ、地震前に地割れのような「ゴー」という音が聞こえていた記憶はありました。

私は家の2階で寝ていたのですが、下から聞こえる母親の「逃げなさい!」という叫び声を聞いて、地震なんだ!と感じるのがやっとでした。ただ、逃げるというよりも私はその場から動けませんでした。

揺れは大きな横揺れでしたが、40秒ほどでおさまりました。この地震では停電になることはありませんでした。ただ、余震が何度も来て恐怖のせいかその日はなかなか寝付くことができなかったです。

東北地方

東北地方で20世紀以降に発生した大地震の一覧です。

2011年に発生した、観測史上最大の地震である東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が日本列島に非常に強い衝撃を残しましたが、東北地方では過去にも何度も大地震が発生しています。

津波はもちろんのこと、土砂崩れなどの二次災害にも十分な注意が求められます。

昭和三陸地震(1933年)

昭和三陸地震は、1933年3月3日の2時30分に発生したマグニチュード8.1の大地震です。震源地は岩手県釜石市東方沖で、岩手県宮古市や宮城県仙台市や福島県福島市などで最大震度5を記録しました。

揺れによる被害も少なくありませんでしたが、津波による被害が顕著でした。死者行方不明者は3,000人を超えてしまいました。

宮城県沖地震(1978年・2005年)

宮城県沖地震は、1978年6月12日の17時14分に発生したマグニチュード7.4の大地震や、2005年8月16日の11時46分に発生したマグニチュード7.2の大地震などの総称です。1930年代にこの近辺で発生した震度4~5の複数の地震や、20世紀以前の大地震も含まれます。2005年の地震では最大震度6弱を記録しています。

体験談

●●1978年に発生した宮城県沖地震での死者は、ほとんどがブロック塀の下敷きになったことが死因でした。私も書店で本棚の下敷きになったので、あの地震経験以来、建物がつぶれないかが、一番心配になります。

人よりも揺れには非常に敏感になり、周りの人が感じていなくとも「おっ地震だ」と一番最初に感じてしまい、壁が崩落しないか、天井は崩落しないかと余計なことを考えてしまいます。実家もブロック塀が全て崩れてしまいました。以前はただブロックをセメントでくっつけて積み上げていたので、倒れるのは当たり前のことでした。

鉄筋の心棒を入れれば、ブロック塀を造作することは認められていますが、ここ仙台ではほとんどの家では、生垣かアルミ柵を取り付けるようになりました。私もこれまで2回家を建てていますが、ブロック塀のことは考えたこともありません。

●●宮城県沖地震があった時、旦那と私は2階で食事中でした。うちの愛犬たちは3階のベランダで日向ぼっこをしていました。地震の経験は一度や二度ではありませんので、慣れている私は「あ、これは大きいぞ」と思った瞬間、まずは1階に駆け下り玄関を開けて逃げ道を確保。

それから猛ダッシュで3階へ駆け上がり、ワンちゃんたちの救助へ。ワンちゃんたちは逃げることも忘れ、大きな揺れに怯えてるだけ。ワンちゃんたちは家族同然ですから、私は二匹を両脇に抱きかかえ階段を降り、もう一匹はその私のあとを追ってきてくれたので、三匹を玄関から外に放り出しました。

外に先に逃げていた旦那にバトンタッチで犬を預け、私は再び2階へあがり、キッチンの火の元をチェック。もうその時には揺れは収まっていましたが、なんだか、火事場の馬鹿力ではないですが、結構こういう時に身体は動くもんだと思いました。今思うと、よくうちのデブ犬2匹を両脇にかかえて3階から降りてきたと思います。

日本海中部地震(1983年)

日本海中部地震は、1983年5月26日の11時59分に発生したマグニチュード7.7の大地震です。

震源地は秋田県能代市西方沖で、秋田市や青森県むつ市などで最大震度5を記録しましたが、震源地に近い能代市では震度5以上の揺れがあったとされています。

ちなみに、当時は能代市に地震計が設置されていませんでした。

体験談

●●日本海中部地震が来るまで、津波の意識がものすごく低かったと思います。誰が話したのかは分かりませんが「秋田側には津波は来ない」というありえない定説ができていました。これは秋田の大多数の人が思い込んでいたことでした。なぜか、津波が来たら海に逃げれば安全という話もありました。とても恐ろしいことです。

私の祖父は漁師で、私は海沿いに住んでいました。激しい揺れの後、「ごーっ!」という音と共に、海の壁が迫ってきたのを覚えています。私の家は、高台にあるため被害はありませんでしたが、祖父は大変怖い思いをしたと話してくれました。

また、このありえない定説を信じた、遠足に来ていた13人の小学生の児童は、津波が来たにも関わらず、海から逃げなかったため、全員亡くなってしまいました。とても悲しいでき事でした。

三陸はるか沖地震(1994年)

三陸はるか沖地震は、1994年12月28日の21時19分に発生したマグニチュード7.6の大地震です。震源地は青森県八戸市東方沖で、青森県八戸市で最大震度6を記録したほか、同県むつ市や青森市や岩手県盛岡市で震度5を観測しています。

また、この地震の10日後にはマグニチュード7.2の余震が発生しています。

体験談

●●青森に単身赴任中の年末に、三陸はるか沖地震を経験しました。それまでに味わったことの無い激しい揺れで、室内がグチャグチャになったのを覚えています。それを裏付けるように、震度は6とテレビのテロップに出ていました。

今思い出してもゾッとするのは、地震の直前まで夕食の調理でガスコンロを使っていたという点です。私は運がよかったのです。もし少し時間がズレていたら…と思うと、真っ青になってしまいます。

あの日の経験から、台所に家庭用の消化器を設置するようになりました。地震で怖いのはやはり火の管理だと思います。もちろん、冷静に対応するのが一番大切であるのは言うまでもありません。地震に対する意識を強く持つようになったでき事になりました。

宮城県北部地震(2003年)

宮城県北部地震は、2003年7月26日の7時13分に発生したマグニチュード6.4の大地震です。震源地は宮城県北部で、同県遠田郡や東松島市で最大震度6強を記録しました。

また、同日の0時13分と16時56分にも宮城県で震度6弱の地震が発生し、震度6レベルの大地震が1日に3回も発生するという非常に稀なケースとなりました。

体験談

●●当時私は3交代の工場勤務をしていました。後に前震とされた3回のうちの最初の地震は、日付が変わったばかりの頃に起こりました。私は夕方4時から11時半までの遅番勤務を終え、自宅に帰り着いたばかりでした。既に寝ていた父と母は大きな揺れに驚いて起き出していましたが、その時点では大きな被害はありませんでした。

朝の7時過ぎに発生した本震では、私の自室の本が全て書棚から崩れ落ち、テレビ台からテレビが落下しました。慌てて降りた階下では、食器棚からほとんどの食器が飛び出し、和室の土壁の一部が崩れ落ちていました。

岩手・宮城内陸地震(2008年)

岩手・宮城内陸地震は、2008年6月14日の8時43分に発生したマグニチュード7.2の大地震です。震源地は岩手県内陸南部で、岩手県奥州市や宮城県栗原市で最大震度6強を記録しました。

内陸部が震源地となったため、土砂崩れや山体崩壊などが各地で発生し、揺れを直接の原因としない被害も少なくありませんでした。

体験談

●●岩手・宮城内陸地震では、岩手県の一関から宮城県の栗原の辺りまでのエリアを中心に、橋が折れたり、道路が寸断されるなどの大きな被害が出ました。少し距離のある岩手県の盛岡市においてもかなりの揺れを感じました。

私は岩手県も中央部に位置する盛岡市というところに居住していますが、岩盤が強固とされる地域にあってもかなりの被害が出ましたので、一戸建てに住んでいる我が家でもこれを機に、それまで入っていなかった地震保険に加入しました。

地震保険は地震による建物の被害や地震を原因とした火災等の被害に対する保険です。地震により火災が発生した場合、通常の火災保険では保険が適用されないということなので、これも地震保険に加入することを決めた理由の一つでした。

●●当日は研修の予定があり、自宅から父の車に乗せてもらい、駅に向かっている最中に車内で地震に気がつきました。最初に車がぐらついた際には、タイヤがパンクしたか、車自体にトラブルが起きたのではないかと思い、父も急いで道路の路肩に寄り、停車したのですが、それでもゆれ続けたため、そこで地震だと気がつきました。

周囲の街灯や信号機も揺れ、少し気持ちの悪い揺れ方をしたため、不安になり、自宅に携帯電話から連絡をするも、つながりづらく、3回目でやっと自宅に電話がつながり、自宅にいた母の安否も確認することができ、安心したことを覚えています。

その後、駅に向かったのですが、電車が運休しており、結局研修の予定も延期となったため、そのまま一度自宅に戻ることになり、自宅に帰ってみると、台所の棚から落ちたのか、いくつか食器が割れ、2階の床の間においていた人形のガラスケースも倒れて割れていました。

これを機に、戸棚に関しては地震の際に勝手に開かないように留め金を新しく付け、ガラスケースなどの割れやすいものに関しては、設置位置を変えたり、倒れにくくするマットを使い、次に地震が来た際には少しでも自宅内での被害が少なくなるよう対策をするようになりました。

東日本大震災(2011年)

東日本大震災は、2011年3月11日の14時46分に発生したマグニチュード9.0の大地震です。震源地は三陸沖で、宮城県栗原市で最大震度7を記録したほか、東北地方南部や北関東の広域にわたって震度6強を観測しています。

津波による被害が非常に大きく、死者だけでも15,000人を超えるという大惨事となってしまいました。

体験談

●●2011年3月11日の東日本大震災が発生した時、私自宅にいました。今までの人生であれほど強い揺れを経験したことは無かったので、これは最悪の結果になる大事件に今まさに巻き込まれてしまっているのではないかという恐怖を感じ、正直、死というものすら頭をよぎりました。

幸いなことにしばらくすると揺れは収まり、家財が多少移動していたり、細かなモノが崩れたり、本棚の本が床に落ちて散乱していたりということはありましたが、私自身はかすり傷一つ無く五体満足な状態で乗り切ることができました。

それでも、マンションに住んでいるので外の無機的な警報音がしばらく鳴りっぱなしだったり、家の外では人々が大声で安否確認をしたりで騒がしく、テレビをつければどの局も緊急生中継で東京の街並みをヘリコプターで空撮していて都内何か所から煙が上がっているのが確認できたりしました。

揺れが起きている間は恐怖心でそれどころではなかったのですが、少し落ち着いてから、「これはただ事ではないんだな」「大変な事になった」という何ともいえない焦燥感と不安で胸がドキドキしていたのを今でも鮮明に覚えています。

この感覚は、2001年の9月11日にアメリカのニューヨークでテロリストにハイジャックされた飛行機がワールドトレードセンターに突っ込んだ全米同時多発テロを生中継でたまたま見ていた時の感覚に非常に近かったのが印象的でした。

結果的には日本の歴史上、他に例をみない程の大惨事となったわけですが、私個人のことを言えば、幸運にも家族や友人や知人で犠牲になった人はなく、今までと変わらない生活を送ることができています。

●●東日本大震災が起きたときに何が起こったのかわかりませんでした。丁度買い物をしていたのですが、店の電気が消えて静かになってしまったので、恐ろしさを感じました。長い地震が起きたことは分かりますが、その後のできごとは初めてだったのですごく怖かったです。

携帯電話を開いても発信ができず、どうしたらいいか考えて、子供のいる小学校に向かいました。子供は小学生と中学生なのですが、小さい子供のほうが不安だろうと思いまして車を走らせました。車で走っている途中も余震にあいまして、足が震えてきました。

止まったときに携帯電話が繋がって、主人と話ができたので、主人には中学校に向かうようにお願いをしました。小学校の体育館に全校生徒が集められていました。子供の安全がわかってとりあえず安心しましたが、いつまでこの状況が続くかということに不安を感じました。

一戸建ての自宅に戻っても電気はついていません。テレビがないので何が起きたのか全くわかりません。ふと思って携帯電話のテレビを見たのですが、地震があったという情報だけ。後に充電が切れてしまい携帯電話も使えなくなってしまいました。

東北でも津波の被害がない場所に住んでいるのですが、普段から地震が起きたらどうするか家族で話し合っておくといいと思いました。そしてしばらく食べれるように食べ物の確保を普段からしておくこと、水の準備など地震に備えをしておくことで安心ができると思います。

●●3月11日の大震災は本当に衝撃的なでき事でした。横浜に住む40歳の私は、幼き頃より関東大震災がそろそろ来るぞと脅かされながら育ってきたのですが、幸いなことに関東ではあまり大きな地震は起こっていません。

当日も自宅(戸建)にいましたが、地盤が固いおかげで、倒れたものもなくはじめは目眩がしているのかと思った程度でした。

小学校に通っている子供たちを迎えに行くべきか迷いましたが迎えにいき、帰ってテレビに映る東北の津波の映像に驚きました。主人の実家が仙台なのです。東京の会社にいる主人の携帯に連絡しましたが、もちろん通じません。災害メールでようやく6時すぎに連絡が取れました。仙台の実家も無事とのこと。

5時過ぎに出先から会社に戻り、固定電話から電話したら、なんと1発で出たらしいのです。停電はしているものの電話線につながっていたので、呼び出し音はかすかに聞こえる程度でしたが、たまたま近くにいて気がついたらしいのです。昔ながらのあまり機能のない電話機だったのがよかったのでしょう。

主人は会社に待機して帰らないものの、皆の無事が確認できたので安心できました。やはり動揺せずに冷静な行動をとるには、早急に家族の無事を確認できるそんな態勢が不可欠だと思いました。

●●強烈に記憶に残っている地震のイメージと言いますと、やはり2011年3月11日に発生した東日本大震災になります。あの日私はたまたま仕事が休みで自宅にいたのですが、共働きということもあって、妻は仕事で出ておりました。

地震発生時と発生直後は、自分の身の安全と火の元の確認など、自分の身の回りのことに頭がいっぱいなわけですが、揺れも収まり状況が飲み込めてくると、仕事に出ている妻の事がとても心配になりました。

すぐさま携帯に電話をしましたが、アクセスが集中しているのか携帯電話会社のインフラがシステムダウンしているのかはわかりませんでしたが繋がりません。

妻の職場は自宅から自転車で行こうと思えば無理なく行ける距離にありましたので、行ってしまおうかとも思ったのですが、避難などをして出会えなかったり、妻が急遽帰宅して家にいるはずの私が逆にいなかったりしたら、行き違いになってますます事態が混乱してしまうと思ったので、どうしようか悩んでいるうちに公衆電話で妻から自宅の電話に電話があり、無事が確認できホッと胸をなでおろしました。

幸いにも妻も私もスマートフォンを使っており、インターネットなどからTwitterなどは生きているという情報を得ていたので、公衆電話で電話をくれた際にTwitterで連絡を取り合おうと確認し、その後妻が帰宅するまではTwitterなどのWebサービスを使って連絡を取り合いました。

しかしながら、さほど遠くないところに住んでいる両親とは携帯電話が使えるようになるまでは結局連絡がつかず、心配しました。

年老いた親の世代にスマートフォンを持たせ、Twitterを教え込むというのはなかなか難しい面もありますが、防災という点では多少苦労しても頑張ってもらって最新の情報技術を最低限使えるようになって貰わないといけないと感じました。

●●日本は地震国ですから、いつ地震があってもおかしくないし、実際、此れまでにも幾度となく地震には遭遇してきている訳です。しかし、盛岡市で東日本大震災に遭い、この時はもう家がつぶれると思いました。

しっかりと目に見えて揺れるのです。どれぐらい横に揺れたかというのが分かるのです。大きくガタガタと揺れ始めた時には観念して、それでも少し揺れが収まったときに、家にいる御婆ちゃんと一緒に外にでました。外に出ると、ご近所の方も出ていたので一緒に一箇所に固まっていました。

学校から帰ってきたお隣の子供さんたちは、家が停電になってしまいキーがあけられない状態になって、我が家のトイレを借りてから、近くの親戚の家へ行きました。

幸い、あまり被害はなかったのですが、キレイに重ねた収納していた食器は本当に何事もなかったようにそのままの状態で、不安定なつくりの食器は3枚割れていました。食器棚や本棚やタンスといったものは、全て倒れないようにツッカエをしてありましたから、大丈夫でした。

あと、電気の復旧が遅かったですから、実際にどんなことが起きているのかは分かりませんでした。携帯ラジオからの情報だけが頼りになりました。

ストーブは灯油ストーブで反射型のカートリッジ式があり、電気を使わなくとも使用できたので、本当に捨てずに置いてよかったと思いました。しばらくは余震が続きましたから、二階の部屋で寝るのが怖くて、一回の居間で皆で寝て暮らしました。

なお、東日本大震災で非常に怖い経験をした後、またいつ大きな地震があるか分かりませんので、地震保険と火災保険に新たに入りました。

関東地方

関東地方で20世紀以降に発生した大地震の一覧です。

大正関東地震(関東大震災)が最も有名ではありますが、20世紀後半以降にも伊豆諸島において複数回の大地震が発生しています。

また、過去の統計上のデータから、今後数十年以内に関東地方で再び大地震が起きる可能性が高いとされていて、十分な注意が必要とされます。

関東大震災(1923年)

関東大震災は、1923年9月1日の11時58分に発生したマグニチュード7.9の大地震です。震源地は神奈川県西部で、東京都内や山梨県甲府市や神奈川県横須賀市などで最大震度6を記録しました。

また、震源地からある程度の距離がある栃木県宇都宮市や千葉県銚子市や長野県長野市などでも震度5を記録しています。

なお、当時は震度の最大値が6であったため、各所の最大震度も6となっていますが、震源地に近い神奈川県小田原市や房総半島南部などにおいては、現在の震度7に相当する揺れであったとされています。

八丈島東方沖地震(1972年)

八丈島東方沖地震は、1972年12月4日の20時6分に発生したマグニチュード7.2の大地震です。震源地は八丈島東方沖で、東京都八丈町で最大震度6を記録しました。八丈町ほどではないものの、東京23区内でも震度4を記録しています。

なお、八丈島では同年2月29日にも震度5の地震が発生していて、余震の回数も多かったです。

伊豆大島近海の地震(1978年)

伊豆大島近海の地震は、1978年1月14日の12時24分に発生したマグニチュード7.0の大地震です。震源地は伊豆大島近海で、伊豆大島や神奈川県横浜市などで最大震度5を記録しました。

250人ほどの死傷者が出たほか、猛毒を含む廃水が鉱山の貯水池から流れ出し、川や海に流れ出たことから、魚介類の被害も大きかったです。

中部北陸地方

中部北陸地方で20世紀以降に発生した大地震の一覧です。

他の地方と比べても圧倒的に大地震が数多く発生している地域です。中部地方はとても広いですが、太平洋側でも日本海側でも内陸部でも、過去に大きな地震が起きています。

21世紀に入ってからは北陸が3回も大地震に襲われており、今後も注意が必要となります。

東南海地震(1944年)

東南海地震は、1944年12月7日の13時35分に発生したマグニチュード7.9の大地震です。

震源地は熊野灘沖で、静岡県御前崎市や愛知県田原市や三重県津市などで最大震度6を記録し、死者と行方不明者が1,200人を超える大きな被害となってしまいました。

なお、20世紀以前に近辺で発生した大地震も東南海地震と呼ばれます。

三河地震(1945年)

三河地震は、1945年1月13日の3時38分に発生したマグニチュード6.8の大地震です。

震源地は愛知県三河湾で、三重県津市で最大震度5を記録しましたが、より震源に近い地域では現在の震度7に相当する揺れが発生したと言われています。前年に発生した東南海地震を上回る人的被害があり、建物の倒壊も非常に多かったです。

福井地震(1948年)

福井地震は、1948年6月28日の16時13分に発生したマグニチュード7.1の大地震です。

震源地は福井県坂井市丸岡町で、福井市内で最大震度6を記録したほか、中部・北陸・近畿地方の広い範囲で震度4を観測しています。

当時人口が20万人ほどであった福井市に被害が集中していて、25,000人もの死傷者が出てしまいました。

体験談

●●私の母が話してくれた福井地震の体験談をご紹介したいと思います。福井地震が発生した1948年当時、母は14歳の中学生でした。突然襲った揺れで、家の前に立っている機織り工場の屋根が、将棋倒しのように倒れたのを呆然と見たのが最後、母は逃げることもできず家の下敷になってしまいました。

祖母は村の人たちと畑仕事をしていて、地鳴りを聞き、体でも感じていたそうです。地震発生時は、またアメリカ軍が戦車を使って攻めて来たのではと思い込み、地面にひれ伏したまま、動くこともできなかったそうです。

揺れが収まったあとの村は惨憺たるものでした。戦後の復興間もない市街地も大打撃を受けました。母は、幸運にも火災に遭うことなく、仕事先から駆けつけた父親の奮闘により救い出されました。

下敷になった際、柱から突き出た釘が母の下顎に貫通し、今もその跡が微かに残っています。痛かっただろうと思いましたが、その時は無我夢中で助けを呼んでいたので痛みも感じなかったそうです。さすがに治療を受ける際にはかなり痛みを感じたそうですが、それでも命が助かっただけ不幸中の幸いと言うことができるかと思います。

もし、発生した時に母や近所の人が夕餉の支度の最中だったら、母をはじめ家の中に閉じ込められた人々は生きてなかったでしょう。また、屋根がトタンで軽かったのも幸いしています。大きな地震に襲われてしまったこと自体は、非常に運が悪いとしか言えませんが、このように運の良い偶然が重なったのは奇跡だと思います。

時は流れ、私は阪神淡路大震災を大阪で経験しました。もう、一戸建ての家が倒れるのではと思う程の揺れでしたが、それでも震度4程度だったそうで、母の体験した震度6がどれ程凄まじかったか、想像するだけでも恐ろしくなります。

阪神淡路大震災が発生した直後のテレビ放送を見ていて、どれだけ甚大な被害を受けたのかを知り、恐ろしく思うと同時に非常に驚きました。普段は頑丈そうに見えている建築物や構造物が地震によって、あれほどの被害を受けるなんて言うことを想像することができなかったからです。

北美濃地震(1961年)

北美濃地震は、1961年8月19日の14時33分に発生したマグニチュード7.0の大地震です。

震源地は岐阜県大日ヶ岳で、岐阜県内で最大震度5を記録しましたが、震源地が山中であったことから、震源付近は震度6以上の揺れがあったとされています。

また、地滑りや落石や土砂崩れなどといった災害が近隣の住民を襲いました。

新潟地震(1964年)

新潟地震は、1964年6月16日の13時1分に発生したマグニチュード7.5の大地震です。

震源地は新潟県粟島で、新潟市や山形県新庄市や福島県南会津郡などで最大震度5を記録しました。

日本海側で発生した地震ではありますが、東北地方や北関東などの広域で強い揺れが観測され、太平洋側の仙台でも震度5を観測しています。

松代群発地震(1965年~1970年)

松代群発地震は、1965年8月3日から1970年6月5日まで断続的に続いた群発地震です。

この間の地震の回数は70万回を超え、実際に震度を記録した有感地震は6万回を超えました。震度5を9回、震度4を48回も計測しています。

回数は凄まじいですが、揺れ自体はさほど大きくなかったため、被害は比較的小さくて済みました。

伊豆半島沖地震(1974年)

伊豆半島沖地震は、1974年5月9日の8時33分に発生したマグニチュード6.8の大地震です。震源地は静岡県石廊崎で、静岡県賀茂郡南伊豆町で最大震度5を記録しました。

南伊豆町以外では震度5は観測されなかったため、この地震による被害は同町に集中し、死者30人と負傷者100人以上の被害が出てしまいました。

長野県西部地震(1984年)

長野県西部地震は、1984年9月14日の8時48分に発生したマグニチュード6.8の大地震です。震源地は長野県木曽郡王滝村で、同地で最大震度6を記録しました。

直下型地震であったことに加え、震源が浅かったことから、王滝村に被害が集中しました。揺れによる被害よりも、揺れに誘発された土砂崩れによる被害が多かったです。

新潟県中越地震(2004年)

新潟県中越地震は、2004年10月23日の17時56分に発生したマグニチュード6.8の大地震です。震源地は新潟県中越地方で、新潟県長岡市で最大震度7を記録したほか、同県小千谷市でも震度6強を記録しています。

震度7という非常に強い揺れを記録したのは、阪神淡路大震災以来のことで、死傷者も多く出てしまいました。

体験談

●●その日は会社が休みだったこともあり、妻と遠出していました。地震が発生した長岡市も、当初その出かけ先の候補に挙がっていたのでした。理由はもう忘れてしまったのですが、逆方面にドライブすることになり、夕方まで楽しんでいました。

出かけ先からアパートまで戻る途中、私や妻のもとに、県外の友人を中心に何件ものメールが来て「地震は大丈夫?」と書いてあるのでした。車に乗っていたこともあって、まったく気づかず、最初はみんな何を言っているのかわかりませんでしたが、ラジオをつけると大きな地震が長岡市であったとのことでした。

友人たちに「自分たちは大丈夫」とだけメールを送ったのですが、夕飯を買いに訪れたスーパーで、大きな余震を体験しました。建物の壁やガラスが壊れそうなほどの大きな余震で、一時店内は外へ逃げる人たちでパニックになりました。しかしすぐに余震はおさまりました。

家へ帰ってテレビをつけると、仕事の取引先や友人が住んでいた町が壊滅状態で驚いてしまい、そのままテレビから離れることができませんでした。あれから我が家は二人の子供たちが産まれましたが、家族を守るために、微量ですが水とカップ麺程度は用意するようになりました。

●●地震が起こった時は仕事中でした。携帯電話の在庫を扱う仕事で、事務所兼倉庫といった感じの所で、私はパソコンをいじっていました。始めはグラグラっと揺れて、すぐに地震だとわかりましたが、それほど気にしていませんでした。ところが、それがいつになく長く、大きく揺れ、棚の携帯電話がドサドサと崩れ落ちました。

自分自身、地震に不慣れではないと思っていましたが、今までに体験した事のない揺れでした。震源近くの中越ではなく、私はいわゆる「下越」と呼ばれる新潟市内にいたのにもかかわらず、しばらく震えが止まらないほどの揺れを感じました。

同じ市内でも「それほどでもなかった」という人もいたので、建物の強度などにもよるのかもしれません。その後、新潟は水害にも見舞われるのですが、どれほどの地震や水害であっても、被害の出ていない地域の人は自分の体験と照らし合わせて、「たいしたことない」と思うようです。

しかしながら、いざ自分の住んでいる地域がそういった災害に遭うと、とても恐怖を感じるのです。誰しも、自分が実際に体験しないと、なかなか理解できないものなんだなぁと思いました。

●●私は、以前勤めていた会社の単身赴任先で中越地震を体験しました。当時の私は入浴中だったんですが、突然の大きな揺れの後に、電気が消えて慌てて着替えて外に出ました。外の電気も全部消えていて、完全に真っ暗でした。

大規模停電という物を一度も経験した事が無かったんですが、辺り一帯が真っ暗というのは精神的に堪えるもので、そのときの不安感は今でも克明に思い出せます。

近所の人達も一杯外に出ていたようですが、倒壊してたり、ケガをしているような様子はなく、一安心。辺り一帯真っ暗な中で、余震が何度も起きたんですが、その度に、周囲でうめき声が起きていたことが印象的でした。

家族と連絡が取れた後、私は避難所には行かず、アパートに戻って寝たんですが、翌日の夜にようやく電気が復旧するまではかなり不安だったことを覚えています。

2週間後くらいには数多く続いた余震も収まり、日常に戻ることができたんですが、他人事としか思ってなかった大震災に実際に遭ってしまった事で、防災意識というものが明らかに高まったと感じてます。ふと気づいた時に保存食を買ったりするようになりました。

●●新潟県中越地震が起こった時、私は自分の家にいました。ニュースによれば、私が住んでいた地域は「震度4」の揺れでしたが、その割には強い揺れだなと思いました。テレビを見て、震源地が父の実家に近いところだったことがわかりました。

私の父は長岡市出身で、私がまだ小さいころ、何度も連れて行ってもらった覚えがあります。その中でも全村避難を余儀なくされた旧山古志村に遊びに行ったことがあり、ニュースの映像を見るたび心が痛みました。家が全壊してしまった親戚もいます。今でも仮設住宅に住んでいます。

また、父が長男で本家を継いでいたため、地震によって壊れてしまった墓は、実家のある群馬に移されました。遠いところの地震でも、心理的にかなりの影響を受けたのが今でも印象として残っています。

能登半島地震(2007年)

能登半島地震は、2007年3月25日の9時41分に発生したマグニチュード6.9の大地震です。震源地は石川県輪島市西南西沖で、石川県輪島市や七尾市や鳳珠郡で最大震度6強を記録しました。

また、この地震は余震が非常に多かったことでも知られ、合計500回以上もの有感地震が発生しました。震度5弱も複数回発生しています。

体験談

●●それまで強い地震にあったことが無かったので、揺れの強さに驚くばかりでした。最初は少し揺れたかな…という感じでしたが、急に強い横揺れが10秒くらい続きました。物はガタガタと音を立てて激しく揺れていました。台所にあったオーブントースターが落下して破損したことをよく覚えています。

外出していた母から電話が掛かってきて、安心したと同時に今後の注意が必要だと思いました。強い揺れはこの1回で、その後も体に感じる揺れはそんなに無かったです。私の地域は震度4で済みましたが、あの時の石川県の震源に近いところの惨状を見ると、凄いことが起こったと今でも感じます。

今でも「地震があるから、いつでも万全の備えが必要だ」という考えは変えていません。その後、東日本大震災でその思いはさらに強くなりました。何時起こるかわからないので、今後も備えはしっかりしていきたいと思います。

新潟県中越沖地震(2007年)

新潟県中越沖地震は、2007年7月16日の10時13分に発生したマグニチュード6.8の大地震です。震源地は新潟県中越地方沖で、新潟県長岡市や柏崎市や長野県上水内郡などで最大震度6強を記録しました。

3年前の新潟県中越地震と同様に、多数の死傷者を出してしまったほか、約7万棟の建物が全壊もしくは損壊しました。

体験談

●●私は2007年の新潟県中越沖地震で被災しました。当時震源地だった柏崎市の隣の長岡市に住んでいました。長岡市は震度5強でした。

その日は祝日で二度寝を楽しんでいたところ、がたがたっと大きな音がしてどんどん揺れが強くなり完全に目が覚めました。地震だと認識するまでに時間がかかりましたし、認識できた後もベッドから出られず何もできませんでした。幸い少し物が落ちただけで、大きな被害はありませんでした。

しかし、職場が震源地だった柏崎市でした。テレビを見ても職場に行くまでの道が通行止めでした。高速がすぐに復旧したのですが、マスコミの車や物資を届ける車で、いつもなら40分で行ける道が5時間かかりました。

職場を見て唖然としました。私がいつもいた椅子には棚が倒れていて机はひっくり返っていました。これが祝日でなかったら、と思うと今でもぞっとします。助かった命だと思いました。

職場が避難場所だったのでたくさんの方が避難されていて、自衛隊の方もすぐに炊き出しをしてくださったり、道路の復旧をしてくださいました。本当に自衛隊の方々には頭があがりません。自衛隊の存在意義を問われることがありますが、私は絶対に必要だと思いますし、最後の砦だと思います。

くしゃっと潰れた家を見ると心がいたみますが、2ヶ月もすると、その場所がきれいになっていたり、新しく建て直されているのを見かけると、人間の力は非力だけれども、それでも立ち上がる力があるのだな、と感動したのを覚えています。

●●丁度引越の準備をしている時に地震を感じました。数日前からカラスがやたらにカアーカアーと鳴いていたのはその予兆だったのかと思いました。引越の見積もりのために、引越業者さんが部屋の様子を見てきていた最中だったんです。

テレビがグラグラ揺れ、台所に掛けてあったフライパンが、カタカタと音を響かせていました。その音が妙に不気味だったのを覚えています。見積もりも早めに切り上げ、お互いの家の状態が良い事を祈って終わりました。

新潟県中越地方では物凄い震度と被害だったのを後で知り、本当に見の毛がよだつ思いでした。それ以降は、棚やタンスの上には物を置かないようし、テレビの下には滑り止めを敷いて動かないようにしました。食器棚にもシートを敷いてから食器を置くように、なるべく動かないよう、倒れないようにしています。

●●新潟中越沖地震のときは、私は自宅にいました。食器棚がすごく揺れてたくさん食器がダメになってしまいましたが、家自体(建物)の損害はほとんどなかったのが唯一の救いでした。

新品のポットも壊れてしまったのはショックでしたが、この体験を教訓にして、壊れやすい食器類は低い位置に置くように配置換えをしつつ、衝撃吸収効果のあるシートの上に皿を載せたりしました。肝心の開き戸の対策には、地震の揺れを感知して自動的にロックがかかる「ひらかんぞー」という商品を設置してみました。

食器棚の対策のほかに、防災対策として、ライフラインが止まったときのためにミネラルウォーターの買いだめをしています。近くに祖母が住んでいるので、祖母の分も考えて、水が安いときにチョコチョコ買うようになりました。

●●私は新潟市内に住んでいる会社員です。2007年の中越沖地震発生時、私と家族は震源地からはかなり離れた新発田市という街で買い物をしていました。

大型ショッピングセンターの駐車場で車から出た瞬間、地面がぐらりと動いているのがわかりました。急いでショッピングセンター内に入ると、店内では新潟県内で地震が発生した旨を放送しており、家電コーナーではお客さんたちが何人もテレビのニュースに釘付けになっていました。

震度6との報道に私たち家族はみな驚き、2004年の中越地震の再来かと思って恐くなりました。たった3年しか経っていないのに、このような大型地震が再び起こるなど、誰も思ってもみなかったからです。

この地震発生数ヵ月後、仕事で震源地近くへ行ったのですが、高速道路は一部段差ができ、ブルーシートのかけられた家も目立ちました。被災された方のことを思うと、とても胸が痛んだ出来事でした。

関西近畿地方

関西近畿地方で20世紀以降に発生した大地震の一覧です。

この地方では兵庫県南部地震(阪神淡路大震災)が非常に有名で、日本で初めて震度7を計測した地震としても知られています。

他の地方と比べると地震の回数は少ないのですが、人口が密集しているため、経済的な被害だけではなく人的被害も大きくなる傾向があります。

北丹後地震(1927年)

北丹後地震は、1927年3月7日の18時27分に発生したマグニチュード7.3の大地震です。震源地は京都府丹後半島北部で、兵庫県豊岡市や京都府宮津市や奈良県奈良市などで最大震度6を記録しました。

揺れによって倒壊した家屋が多かったほか、多数の事務所や工場も火事で焼失し、1万人以上もの死傷者を出してしまいました。

昭和南海地震(1946年)

昭和南海地震は、1946年12月21日の4時19分に発生したマグニチュード8.0の大地震です。震源地は紀伊半島沖で、岡山県岡山市や三重県熊野市や兵庫県淡路市などで最大震度6を記録しました。

揺れや火災による被害が大きかったほか、複数地点で高さ数メートルの津波が訪れ、それによる被害も非常に大きなものでした。

阪神淡路大震災(1995年)

阪神淡路大震災は、1995年1月17日の5時46分に発生したマグニチュード7.3の大地震です。

震源地は兵庫県淡路市で、兵庫県神戸市や芦屋市などで最大震度7を記録したほか、近畿地方と四国地方の広域にわたって震度4以上の揺れが観測されました。

大都市直下型の地震であったことから、被害も大きくなってしまいました。

体験談

●●当時、大阪市内に住んでいました。家族構成は私と夫、2歳と6歳の子供2人です。冬の間は寒いので、一番狭い部屋を寝室代わりに使っていました。その晩、深夜3時を回った頃でしょうか。特に暴飲暴食や体に合わないものを食べた訳でもないのに私と夫は腹痛を覚え、2人で交互にトイレへ行くことを繰り返していました。

腹痛が収まった頃、今度は2歳の子供が泣き始めました。おむつを替えたり、ミルクを飲まそうとしても嫌がって泣き続けます。

服の中に何かチクチクするようなものでも入っているかもと脱がしてみましたが、何も見つかりませんでした。色々手を尽くしましたが、一向に泣き止まず、救急病院へ電話してみようかと思った瞬間に揺れが来ました。夫も私も布団の上に体を起こしていたのですが、倒れてしまいました。

それでも夫は子供たちに覆い被さって庇い、私は箪笥が倒れないよう、必死で押さえました。夫は本棚から落ちて来た本が当たって痛そうでしたが、怪我もなく、子供たちも大丈夫でした。

それから、急いで床の間に行きました。床柱は頑丈なものを使っているので、そこが安全と聞いていたからです。皆で毛布に包まり、くり返し起きる余震が収まるのを待ちました。私は両親が住む愛知県方面に東海地震が起きたのではと思い、実家に電話しましたがそうではないとのこと。

テレビをつけ、夜が明けるに従って大変な事が起きたんだなと実感しました。我家の被害は食器が少々割れた程度でしたが、腹痛も起こさず、子供も夜泣きしてなかったら本棚や箪笥が倒れたりして相応の怪我をしたのではないかと思います。

その後、淡路島のあるお宅で地震の前に赤ちゃんが泣き止まず、別室へ連れて行ったら地震が発生、ほんの数分前に赤ちゃんが寝ていたベビーベッドの上に梁が落ちたという話を聞き、我家にもそれと似たことが起きたのではないかと思った次第です。

●●阪神淡路大震災の体験が忘れられません。地震後、仕事に行こうにも電車がストップしていましたし、連絡も取れませんでした。

一戸建てに住んでいて、その家自体には損傷はありませんでしたが、家の中は足の踏み場もない状況でした。ともかく周辺が心配でしたので、明るくなると同時に、家の周辺を見て歩きました。そして、いかに自分の家が危険と隣り合わせだったかということに愕然としたものです。

自宅から200メートルばかり歩くと、そこはガス漏れらしき匂いが立ち込めていました。木造の古い家のいくつかは、壁が崩れたり、屋根が落ちていましたし、遠くでは緊急車両のサイレンがひっきりなしに響いていました。まったく予想外でした。こんな近くに崩れている家がいくつもありなんてこと自体が信じられませんでした。

後になってわかったことですが、幸い私の家の周辺では亡くなった方はいらっしゃいませんでしたが、こんな大きな地震が身近に起こり、亡くなった方が出たかもしれないという光景を、いまだに忘れられず、鮮明に覚えています。

家に戻り、崩れた家の光景を思い出しながら、家の中を不安な気持ちを引きずりながら、家族で手分けしてかたずけました。その後、ガス、水道、電気のインフラもなかなか復旧せず、それから2週間ほど、不便を強いられましたが、ともかく無事だったこと、それだけで十分だと思えました。

●●日本は地震大国ですが、私が住んでいる地域は、本当に地震が少なく、震度2程度の揺れでもお騒ぎするほど、地震の体験がありません。もちろん、地震に対して防災意識は少ないですし、避難訓練など、お遊びのようなものでした。

ところが、あの阪神大震災が起きました。この地域では震度3~4でしたが、ものすごい揺れに感じ、本当に恐怖を覚えました。震度7だった神戸の方々は、さぞかし揺れたでしょう。この程度で、騒いだ私たちはとても恥ずかしかったです。

それから、少しずつ地震に対して気になるようになりました。転倒防止のために家具に棒を建てたり、食器棚にゴムをつけて開かないようにしたり、寝る場所も考えました。なるべく、家具の少ない部屋に移動し、いつ地震が起きてもいいように家族で話し合いをしたりしました。

そして、阪神大震災から数年後、とうとう私たちの町も大地震に襲われます。最大震度6強という、大きな地震が町を襲ったのです。昼間でしたので、家族はバラバラ。私は、会社の中で、必死に机の下にもぐり、声にならない悲鳴をあげていました。ほんの数秒だったと思いますが、とても長く揺れたような感じがしました。

外にでようと思いましたが、足が震えて歩けません。みんな這うようにして、なんとか外に出ました。外にいた人もみんな、しゃがんで、ただ茫然と座り込んでいましたね。幸いにも、大きな被害もなく、死者も出ませんでしたが、日本中どこでも大きな地震はくるのだとわかりました。

幸いこの地域では東日本大震災では揺れを感じることがありませんでしたが、今後は、関東・東海・南海など、いろいろな場所での巨大地震が予想されています。備えあれば憂いなしです。必ず来る地震に対応できるよう、一人一人が努力することが必要だと思います。

また、最後になりますが、地震保険も欠かせないなと思いました。既に加入されている方でも一度火災保険と併せて見直しをされた方が良いと思います。

●●当時、大阪府の寝屋川に住んでいましたが、朝の6時前だったと思います。ベットで寝ていましたら、長い時間揺すられ、地震であると感じましたので、すぐにテレビをつけて見ました。すると、阪神高速道路の高架が倒れ、すごい状態になっており、慌てて「会社の状態はどうだろう…」と思い、駅に向かいました。

当然、電車の運行ダイヤは乱れ、駅のホームが人で埋まっていました。電車の到着時間など予想もつかず、かなりの時間をホームで待ちました。

電車到着とともに、かき分ける様に車内に乗り込み会社に向かいましたが、会社の中も棚などが倒れ、片付けが大変でした。通常の仕事もできず、その日は片付けだけの日になってしまいました。

中国四国地方

中国四国地方で20世紀以降に発生した大地震の一覧です。

過去の記録を見ると安芸灘を震源地とした大きな地震が複数回発生していますが、それ以外の地域ではさほど地震は多くありません。

ただ、昔は地震が非常に発生しにくいとされていた鳥取県で大地震が発生していますので、普段から防災の意識を持っておくことが大事です。

芸予地震(1905年・2001年)

芸予地震は、1905年6月2日と2001年3月24日に発生した地震のことです。震源地は共に安芸灘で、マグニチュードはそれぞれ7.2と6.7です。

1905年は震度を数値で表していませんでしたが、2001年は広島県内の複数地点で震度6弱を記録しています。なお、19世紀以前に近辺で発生した複数の大地震も芸予地震と呼ばれます。

体験談

●●西日本在住です。芸予震災の当日に瀬戸内地方の埋め立て地に立地する工場で、作業をしていました。当日はたまたま、日曜日か祝日で工場の稼働日ではありませんでした。当時、メンテナンスを担当していた私は、休日出勤で、工場のIT系の保守作業を行っていたのです。そこに震度5が起りました。

今では震度5では誰も驚かないかもしれません。ですが、それでなくても地震に不慣れな西日本の人間と云う事を割り引いてもらわなければなりません。当時は地震等、起こる事も想定していませんから、棚からはモノが落ちる落ちる。不安定な形態で置いてあるマニュアルや、その他、雑多のモノが、ばっさばっさと落ちてきます。

「このまま工場の中にいると死ぬかもしれない」と思い、頭をかばいながら工場の外に飛び出しました(後に、そのような形で飛び出すと、屋根からの瓦等の落下物に当って危険だと教えられました)。

さて、工場の外に飛び出て、目の当たりにしたのは液状化現象でした。

液状化現象自体は、阪神大震災でマスコミを通じて広く報道されていたので、知識だけはありました。ですが、自分がそれに巻き込まれるとは思ってもみませんでした。工場の敷地中に、ヒビ割れができて、海底のドロの様なモノがあふれ出しています。あたりは、ドブのような独特の臭気がただよっていました。

何とか、工場の責任者と連絡をつけて、安全な場所に集合。後始末が終わったのは、日付が変わった頃でした。今から10年以上も前の話です。この一件以来、地震保険に加入し続けています。住宅ローンのこともあっての加入でした。

●●前年の鳥取県西部地震で初めて大きな地震を体験したのに、次の年、芸予地震も体験しました。私たちの住んでいる街は震度4でした。結構揺れました。その時は家にいましたので、家族は全員家にいました。

外で庭の手入れをしていると、なんだかプランターが勝手に動いているのです。子供たちは部屋でお昼寝の時間でしたので、大型テレビの前で寝ていました。突然揺れが大きくなり、私はあわてて、家の中に走りました。

案の定、大型テレビは横に大きく揺れ、今にも子供たちの頭の上に倒れてきそうでした。あわてて布団ごとひっぱり、テレビのそばから離しました。あれが頭に倒れてきたら、きっと大けがをしていたでしょうし、最悪の事態も考えられたと思います。

今のような薄型テレビではなく、重たいブラウン管テレビでしたので、あんな場所にお昼寝させていたのはとても反省しています。それから、お昼寝は、なにも置いていない和室に変更しました。本当に怖かったです。

大きな家具類の場所もそれから変更しました。当時、婚礼ダンスのある和室が家族5人の寝室でしたが、寝る位置を変えたり、鏡台にチェーンを貼って転倒しないようにしっかりと固定しました。食器棚も横開きのものに変更しました。

●●2001年に起きた芸予地震を学校で体験しました。当時は高知県に住んでいて、高校生で校舎自体は築100年の古い建築物。震源からは離れていましたが、揺れはとても怖かった記憶があります。

地震発生当時は授業中で、直前に「ゴー」という空気の振動が耳鳴りのように聞こえてきて、教室のクラスメイトたちや先生が異変に戸惑い始めた瞬間、大きな横揺れが一度。教室のある横長の建物が前後に動いたのをはっきり覚えています。

クラスメイト達は悲鳴を上げて大騒ぎ、先生は情報を収集するために「騒ぐなよ!」と一喝して職員室に立ち去ってしまいました。その後は余震もなく、緊急集会の類もなかったのですが、あの教室の建物が大きく揺れた恐怖は、今でも記憶から離れません。できればあんな経験はもう二度としたくありません。

●●2001年、愛媛県松山市にて芸予地震に遭遇しました。当時は市内のイベント会場にいたのですが、地鳴りとともにひどい揺れが来て、展示ブースの陶磁器が落ちて「パリン、パリン」と割れる音があたりに響き渡りました。

今まで感じたことのないひどい揺れに場内は一時騒然としましたが、揺れが収まった後は余震もなく、周囲の人も次第に落ち着きを取り戻しました。ただ、電話がしばらくつながらない状態でしたので、家族に連絡が取れるようになるまで落ち着かなかったのを覚えています。

地震の被害状況の全体像が分からないのはとても不安でした。それまでの人生で大きな地震というものに遭遇したことはなく、自分の住んでいるところは災害の少ない地域だと勝手に思い込んでいたことを反省させられた一日でした。

鳥取地震(1943年)

鳥取地震は、1943年9月10日の17時36分に発生したマグニチュード7.2の大地震です。震源地は鳥取県東部で、鳥取市で最大震度6を記録したほか、岡山県岡山市でも震度5を記録しました。

木造住宅が多かったため、揺れによる建物の全壊率は8割以上にも及び、死傷者数も1,000人を超えるという結果になってしまいました。

鳥取県西部地震(2000年)

鳥取県西部地震は、2000年10月6日の13時30分に発生したマグニチュード7.3の大地震です。震源地は鳥取県米子市南方で、鳥取県境港市や日野郡などで最大震度6強を、その他の鳥取県内各地で震度6弱を記録しました。

建物の被害は多かったものの、これだけの強い揺れであったにも関わらず、死者は発生せずに済みました。

体験談

●●鳥取県西部地震は、私が一人暮らしをはじめてから初めての大規模な地震でした。大学進学にあたって、親元から離れてアパートを借りて暮らし始めた年でした。揺れそのものは、大きいけれど大したことがないと思いました。

阪神淡路大震災を神戸で体験していたので、あれに比べればと思いました。マスコミの扱いも、神戸に比べれば小さかったですから。ただ、そうにも関わらず恐怖を感じました。その理由は次の通りです。

当時、私が住んでいたのは家賃の安さを重視しての築20年のアパートの3階でした。外付けの錆びた鉄製階段が唯一の避難経路だったのです。コンクリートでできたベランダの隅に亀裂があるのを見つけた時にふと思ったのです。

この真横にある階段が外れてしまったらどうなるだろうかと。アパートの周りに車が入れる道はないけれど、いざそんなことや火事、怪我などになった時、どうやって助けがくるのだろうと。気がついてしまえば、それから後はずっと気になってしまうことでした。

相談する家族も何もなく、実家住まいの友人が多く、被災して大変そうなときに相談もできませんでした。同じアパートの住人たちとも面識はありません。安い家賃に目が眩んで、とても不安な時間をすごしました。

そのアパートには収入がない大学生活の間ずっとお世話になりました。その不安さえ除けば、とてもよい住処でした。あれから、引越しを考える際にはまず非常事態について考えるくせがつきました。

●●2000年に発生した鳥取県西部地震を体験しました。この地域は地震が本当に少ない地域です。今まで大きな地震など経験したことなんてなかったのです。それが、いきなり、あの巨大地震です。もう、声にならずただ、ぼうぜんと座り込むことしかできませんでした。

会社の事務として仕事中だったのですが、パソコンは倒れるし、キャビネットも今にも倒れそうでした。窓ガラスは亀裂が走るし、本当に怖かったです。まるで、大きな船の上に乗っている感じで、横揺れがすごかったです。

ほかの社員の人もものすごい悲鳴をあげていました。私は、机の下にはいって目をぎゅっとつぶっていることしかできませんでした。揺れが収まると、落下物を確認しながら全員外に出ました。他の会社の人も大勢外に出ていました。

冷静になってくると、今度は家族のことが心配になってきました。当時子供は小学生でしたので、他の生徒や先生方と一緒にいるだろうからきっと大丈夫だろうと思っていましたが、無事を確認するまで、不安でしょうがなかったです。

とうの子供は昼休みで校庭で遊んでいて、全然気がつかなかったそうです。こんなに心配していたのに、ちょっと驚かされました。でもそれから、立て続けにおきた日本中の地震で、防災意識が高まったのは事実です。

●●鳥取県へ旅行へ行っていた時に運悪く地震に遭いました。鳥取名物であるらくだに乗って、鳥取砂丘を楽しんだ後に繁華街を歩いていたら鳥取県西部地震に遭遇しました。今まで、地震というと家の中や学校などの室内でしか体験をしたことがなく、初めての外での地震を体験したので慌てました。

確か地震の時は外にいるより屋内に居た方が安心だと聞いていたので、かなり焦りながらどこか身を隠すところは無いか…と探しているうちに地震が去りました。

旅行で来た地でしたので、物や家屋の損害はありませんでしたが、丸腰で歩いている時に地震が来るというのはとても恐ろしい事だと知りました。その後からは地震が来たときはどういう対処をすればいいのか、など沢山調べています。

●●私は2000年の鳥取県西部地震を体験しました。この時、私は人生で初めてこの規模の大地震を体験して、かなり動揺した事を憶えています。この地震が起きた時、私はちょうど自分が経営していた店の店番をしていました。その店というのが、酒屋という事もあって、地震が起きた事で大惨事となりました。

店の棚に置いてあった酒のほとんどが棚から落ちました。その中にはもちろん高級な酒もあったので、その損害額はとんでもないものでした。しかも、それで店中酒浸しになりましたので、店中がお酒の匂いが充満してすごく臭くなりましたし、その後の掃除も大変でした。

今のところ、この鳥取県西部地震が私が体験した地震で一番すごい地震でした。もう、あんな大地震は勘弁して欲しいです。

九州地方

九州地方で20世紀以降に発生した大地震の一覧です。

回数だけを見ると日向灘が断トツで多いのですが、特に揺れの大きな地震は九州地方南部で観測されています。

そのため、福岡や佐賀などといった北部の県でも、宮崎や鹿児島などといった南部の県でも、日頃から地震に対する備えを万全にしておくことを強くおすすめします。

日向灘地震(1909年~1996年)

日向灘地震は、日向灘を震源地として度々発生している大地震です。20世紀以降だけでも震度4~5の地震が13回も起きています。

これまで震度6を超えるような揺れはなく、1990年代以降は死傷者も出ていませんが、いつまた大きな揺れが襲ってくるか分かりませんので、これからも防災意識を高く持つ必要があります。

体験談

●●日向灘地震に遭遇しました。私が小学校へ通っていた時のことであり、学校の国語の授業を受けていたら、いきなり激しく揺れ出したのを覚えています。

地震が起き教師が「みんな机の下に隠れて!」と絶叫しているのを、子供たちは面白がって笑っていました。子供の時は想像力や知識が足りず、震災が起きても意外にあっけらかんとしていますが、大人になると地震は命や健康や資産などを奪うものであると実感し、とても恐ろしいものと認識します。

私も子供でしたので、先生の言う事を聞いて机の下に隠れつつも、激しく揺れるのを面白がっていました。けれども、大人になって他の地震も体験してからは地震がいかに恐ろしいものなのかを知り、今では少し揺れるとすぐに机の下に隠れています。

喜界島地震(1911年)

喜界島地震は、1911年6月15日の23時26分に発生したマグニチュード8.0の大地震です。

震源地は鹿児島県喜界島南方で、奄美大島で最大震度6相当、沖縄県那覇市で震度5相当の揺れを観測し、南西諸島最大の地震として知られています。なお、現在も詳細は分かっていないものの、海溝型地震であると考えられています。

えびの地震(1968年)

えびの地震は、1968年2月21日の10時44分に発生したマグニチュード6.1の大地震です。震源地は宮崎県えびの高原で、えびの市で最大震度6を記録したほか、九州地方全域で揺れが観測されています。

同日の朝夜にもそれぞれ震度5の地震が発生していて、朝は前震、夜は余震とされています。47名の死傷者が出てしまいました。

福岡県西方沖地震(2005年)

福岡県西方沖地震は、2005年3月20日の10時53分に発生したマグニチュード7.0の大地震です。

震源地は福岡県西方沖で、福岡県福岡市と佐賀県三養基郡で最大震度6弱を記録したほか、福岡県と佐賀県の広域で震度5強の強い揺れが観測されました。また、ちょうど1ヶ月後の4月20日に震度5強の余震も確認されました。

体験談

●●私がはじめて地震に恐怖を感じたのは「福岡西方沖地震」の時でした。それまでにも地震を経験したことは何度かありました。規模は小さなものだったので、幼い頃から両親に言われていたとおりにテーブルや机の下に隠れるだけでも十分に身を護れる程度の地震です。

しかし、福岡西方沖地震の時には今まで安心感を抱いていたテーブルや机の下にいることがとても心細く、心の底から恐怖を感じました。

部屋にあるたくさんの物が落下し、窓ガラスは割れ、どんな時でも私を護ってくれる存在であるはずの母の顔が恐怖で満ちていました。あんな母の顔を見たのはその時が初めてで、今でも鮮明に覚えています。

福岡西方沖地震を経験してから、初めて自分の身を護るための準備ということをするようになりました。もちろん、自分の体験した地震が、それまでに考えたことのなかった「地震への備え」をするようになったきっかけです。

でも最大の理由は、その時私に大きな恐怖を与えた地震よりも、はるかに大きな地震が過去に日本を襲っているという事実を知った時に、その想像を絶する恐怖に何も準備せずにはいられなくなったんです。

きっと地震に対しての準備を何もしていない人は数え切れない程にいると思います。でも、ただ漠然とでもいいので、何か準備をする必要があると思いますし、するべき時だと思います。「準備をしておくべきだった…」とならないためにも。

●●当時は学生で、一人暮らしをしていました。丁度家にいて、自動車学校へ行こうとしていたときに経験したのです。揺れたときは本当にビックリしました。

部屋の洋服を掛けるフックが倒れて、綺麗なフローリングにポッコリと穴が開いてしまいました。出かける準備をしていたので、そのまま玄関先へ飛び出しました。福岡は地震はないと過信していたので、すごくショックでした。

●●3月のある日曜日。私の住んでいる県で地震が起きました。地震が起きたのは午前10時くらいのことで、休みということもあって私は寝ていました。すると突然、アパートが揺れだしたのです。ただの揺れではありません。横に揺れるのではなく、縦に揺れたのです。

地震が収まって私はテレビを付けました。大騒ぎになっています。家族に電話をしても回線が混乱して通じません。私は自転車を飛ばして実家に行きました。実家は高層マンションの一室です。被害はテレビが台から落ちて壊れた位で、家族は誰も怪我をしていなかったので、安心しました。

●●私が一番大きな地震を体験したのは、2005年の福岡で起きた震度6弱の地震でした。前日の土曜の夜に、私は友人と二人で海へ行きました。「今年の夏が楽しみだな〜」といった他愛のない話をして、気持ちのよい夜風を感じていました。

深夜を回った頃に私は帰宅し、眠りにつきました。その週は仕事が忙しかったので、疲れも溜まっており、待ちに待った週末だったということもあり、眠りにつくのも早かったと思います。

夢の中で、誰かが部屋を揺らしていました。私は、揺らすのをやめるように言ったのですが、やめる気配がなかったので、夢の中で怒っていました。そして、あまりの揺れに私は目が覚めました。震度6弱の揺れが10秒ほど続きました。私は一体何が起きているのか理解できず、ただその揺れをベットの中で眺めているだけでした。

電気がスゴく揺れて、部屋の家具が倒れました。マンションの火災報知器が鳴り、各部屋からドアの音がバタバタとしていました。やっと揺れが収まるとこれはただ事じゃないと思い、さっと着替えて外へ飛び出しました。

マンションのエントランスでは、赤ちゃんを抱っこして恐怖に泣きながら旦那さんであろう相手に電話をしている女性がいました。火災報知器が町中になり響いていました。2011年の東日本大震災はあんなものじゃなかったのだろうと思うと、なんとも言えない気持ちになります。

●●普段テレビなどで地震のニュースが流れると、「大変だな…」とどこか他人事のような気持ちなのですが、実際に体験してみると怖くてたまりませんでした。

最初は軽い揺れから始まり、「地震かな?」といった程度の気持ちだったのですが、段々と揺れを増していって立っていられなくなりました。その時は本当にパニック状態で、逃げ出すのもままならずに床にへたり込んでしまいました。

聞くのと体験するのとでは大違いで、迅速な対応どころではありませんでした。物は落ちるし、目の前にある景色が上下左右に揺れるのです。正直、もう終わりかな…と思ってしまうほどでした。

その後は、落ちて壊れてしまったテレビの代わりに携帯電話についてテレビをつけて、家族と一緒に毛布に包まって震えながらニュースにかじりついていたことを今でも覚えています。この経験を通じて思ったのは、地震に対する対策や準備は絶対必要だということです。起こってからでは遅いのです。

●●福岡県西方沖地震があった日、日曜で休日だったため、私は昼まで寝ようとベッドの上にいました。

住んでいた地域では震度4でしたが、強烈な揺れでベッドがガタガタと揺れ目を覚まし、驚きのあまり「逃げよう」とか「倒れてくるものは無いか」など考える余裕は一切なく、ただ布団の上でパニックになっていました。揺れている間は、声を出すことも動くこともできず、本当に怖かったです。

揺れがおさまると「みんな怪我はない?」など家族で声をかけあい、全員の無事を確認。その後、友人に安否確認をとりましたが、ちょうど福岡ドームで行われていた蘭の博覧会でバイトをしていた友人は、無事だったものの大きな鉢植えが倒れたり割れたりと非常に怖かったそうです。

また、別の友人は大きな食器棚が体のすぐ横で倒れ、ちょっとズレていたら下敷きになっていたと話していました。それ以降、寝室には背の高い家具や、重い家具は一切置いていません。

熊本地震(2016年)

熊本地震は、2016年4月14日21時26分以降に発生した複数の大地震の総称です。

震源地は熊本県中西部で、前震は14日21時26分にマグニチュード6.5(最大震度7)、本震は16日1時25分にマグニチュード7.3(最大震度7)とされています。

14日~19日に最大震度5弱以上の地震が20回以上記録されるという非常に大きな地震となりました。

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